この「急行高千穂号」という音の響き・・・東京駅でずっと昔に聞いた女性のアナウンスとして、今も記憶に残っている。 私の両親は大分県出身である。 私も小学生の頃からこの高千穂号で帰省していた。 もちろんブルートレインの寝台特急富士号もあったし、新幹線もできたけど、子どもなので高校くらいまではこれを利用させられた。
(1) 乗車前
列車編制は14両くらいだったかと思う。 それでも夏休みとかにはとてつもなく混雑した。 ホームで待つのではなく、八重洲中央口広場に待機場所があった。 「雲仙」「霧島」とか「高千穂」の列車名のプレートの前に並ぶのである。 時間が来たら駅員さんの誘導でホームに上がるのだが、複数の車両にどう振り分けられたのか・・・その後の展開の記憶はない。 しかし、窓から荷物を投げ込んで席を確保する破廉恥な人を見かけた記憶がある。
何時に並びに行くかは大問題だった。 ネットもないし、そんなことを知らせるサービスもなかった。 前日に下見に行き、予想を立て、いつも早めに並びに行った。
(2) 乗車中
なるべく窓側、子どもなりに考えてトイレから離れた席を取るのである。 通路側に座ると側面のガードがないので、寝込んだときに頭が通路側にカクンと傾き目が覚めてしまうのだ。 また、通路側の肘掛けに腰を下ろす腹立たしい人がいるので、油断がならない。 ボックスの人と運良く仲良しになったら、床に新聞紙を敷いて靴を脱ぐこともできる。 向かいの席に足を投げ出すこともできるのだ。
蒸気機関車の時代だった。 しかし、東京近郊で牽引していたのか覚えていない。 トンネルの前後で窓の開け閉めをして煙の侵入を防いだ。 関門トンネルでは電気機関車に換えていた記憶はある。 さすが長いから燻製ができても困るからだと思う。
トイレに行ったときに、便器の空間から線路の敷石が見えていた。 とくにそのことについて深く考えたことはなかった。 あるとき、窓から顔を出して風に当たっていた。 顔に何か霧のようなものを浴びたことがあった。 姉が「バカね、顔なんか出して、それはトイレの水よ!」と笑った。 わかった! それで、「停車中はトイレを使用しないでください」のアナウンスがあったのか・・・線路脇に「黄害」反対の看板がでていたのか・・・窓ガラスに下から上に水滴が走ったような跡があったのか。 それからは、席はトイレから遠いところにして、窓からは顔を出さないようにつとめた。
(3) 降車後
田舎に帰ろうと思った自分を呪いながら、ミーンミーンっていうホームを歩く。 ほとんど座ったままだったので、膝がガクガクなる。 たいていじいちゃんが迎えに来てくれていた。 それから駅前の食堂でラーメンを食べさせてくれた。 しかし、ウエーブかかってないんだ。 そうめんのようなラーメン・・・
というわけで20時間以上の列車の旅が終わる。